『森の京都 おでかけ歴史探訪マップ』

森の京都(京都府亀岡市、南丹市、京丹波町、福知山市、綾部市、京都市右京区京北)は、古くから京の都の繁栄を支え、人々の暮らしと地域文化を育んできた地域で、歴史と伝統のある有形無形の文化財が点在しています。「森の京都 おでかけ歴史探訪マップ」は、地域の観光ガイドマップと連携した、文化財の情報をご紹介しています。文化財の魅力に触れ、まち歩きやドライブなどにお役立てください。

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スマートフォンでGPS対応のイラストマップをご覧いただけます。 現在位置を確認しながら歴史探訪をしてみましょう。 また、観光スポットや文化財の掲載された、各地のイラストマップもご覧頂けますので是非ご利用ください

亀岡市

佐伯灯籠 人形浄瑠璃

佐伯灯籠 人形浄瑠璃

ひえ田野神社、御霊神社、河阿神社、若宮神社の4社が合同で行う盆行事。国の重要無形民俗文化財に指定されている。貞観5年(862)京都御所からひえ田野神社に灯ろうが下賜されたのを祝い、五穀豊穣を願う地域のまつりとして始まった。
農作業の様子を表す人形が飾られた5基の灯籠がみこしとともに地域を練り歩き、境内には夜店が数多く立ち並ぶにぎやかな夏の夜の祭典で、浴衣姿の人達が大勢繰り出す。
「台灯籠」と呼ばれる移動式の小さな舞台では、背丈30cmほどの人形を操る浄瑠璃が演じられる。


亀岡祭山鉾行事

亀岡祭山鉾行事

丹波の祇園祭とも呼ばれる祭。
23日宵々山、24日宵宮に各町が競って山鉾を建て、提灯が飾られる。25日には鉾の巡行が行われる。
城下町では街角ギャラリーや花灯路など様々な催しが実施される。


出雲風流花踊

出雲風流花踊

出雲大神宮鎮花祭は、和銅年間に始まった雨乞いの神事が起源とされる祭。四季の花で飾った花笠に狩衣、水干、白足袋姿の衣装の踊り手が小太鼓をたたきながら踊る優雅な踊り「出雲風流花踊り」が奉納される。


鍬山神社 本殿

鍬山神社 本殿

和銅2年(709)に建てられた神社で、鍬山大明神とも矢田神社とも呼ばれている。昔このあたり一帯が泥湖であったのを、祭神の大己貴命が鍬で請田峡を切り開いて水を流し耕作田として民に穫りをあたえた。そのことに感謝した住民が鍬山大明神として祀ったのが起こりと伝えられている。紅葉の名所としても知られている。


楽々荘庭園

楽々荘は、貴族院議員で明治時代の京都の政財界の立役者で、現在トロッコ列車が運行している旧山陰本線を敷いた実業家田中源太郎の邸宅として明治33年(1900)頃完成。 迎賓館として建てられた書院造りの日本家屋とトロッコ列車のトンネルと同じレンガで造られた洋館は、平成9年(1997)に国の有形文化財に登録された。1,600平方メートルある日本庭園は七代目小川治兵衛(植治)が作庭したもので、池の水源だった雑水川が洪水を起こし改修され、滝から池に水を落とせなくなったため、池の水を抜き小石を敷き詰め、池泉庭園から枯山水庭園に変身している。園内は、松・サルスベリ・桜・かえで等約100種類が植樹されている。建物前には、石と芝生の広場が有り、明治時代の庭園の特徴を伝えており、豊臣家ゆかりとも伝えられる石灯籠や鉄製の井筒もある。
※平成30年3月7日、がんこ京都亀岡楽々荘としてオープンし、四季折々の素材を活かした京料理に加え、亀岡牛などの亀岡名物が味わえる。


大井神社の立花行事

大井神社の夏祭りで、各町内から1.2mの大松を主体にした立花が奉納される。
夜おそくまで露店が並びにぎやかに行われる。


犬甘野の御田

御田植祭とも呼ばれる農民の農作業を儀式化した祭で、見る人の目を楽しませる。
鎌倉時代より始まったとみられ、五穀豊穣を願う農民の儀式である。


愛宕神社(鎮火祭)

全国愛宕神社の総本宮ともいわれ、火の神火産霊尊をまつる。
神霊を慰め、火の霊力に感謝し、火災のないよう祈願する祭り。

南丹市

かやぶきの里北集落

かやぶきの里北集落

京都府南丹市美山町の北集落は、ひな壇上の傾斜地に約50軒ほどの家が立ち並ぶ集落です。平成5年に集落全体が重要伝統的建造物群保存地区に選定され、今もなお大半の家が「北山型入母屋づくり」と呼ばれるかやぶき屋根で保存されていることから、「かやぶきの里」の愛称で親しまれており、京阪神を中心として多くの観光客が訪れ、昔ながらののどかな風景に癒されています。


最古の農家型住宅 石田家

最古の農家型住宅 石田家

京都府南丹市美山町樫原にある石田家住宅は、桁の継手に墨書で「慶安三年三月十一日」と明記されており、建築年代が明確な農家としては日本最古であることから、昭和47年に「慶安五年七月吉日」の祈祷札と共に、国指定重要文化財に指定されています。※慶安三年は1650年


 田原の御田とカッコスリ

田原の御田とカッコスリ

京都府南丹市日吉町田原の多治神社に伝わる「田原の御田(たわらのおんだ)」は、毎年5月3日にモミの準備から刈り入れまでの稲作の工程を演者が演じて豊作を祈るもので、平成12年に国指定の重要無形民俗文化財に、「田原のカッコスリ」は秋の祭礼の折りに、稚児を中心に、鼓や太鼓、笛の演奏者と踊り手が、踊り手の歌にあわせて踊るもので、平成12年に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に指定されています。


ザイラー家かやぶき音楽堂

ザイラー家かやぶき音楽堂

京都府南丹市日吉町上胡麻に、ピアノデュオ連弾で世界的に有名なザイラー夫妻のかやぶき音楽堂があります。福井県の古いお寺を移築して建てられたもので、夫のエルンスト・ザイラー氏の逝去後は、カズコザイラー氏によって春と秋にコンサートが開かれています。2年に1度開催されるかやぶき音楽堂国際ピアノデュオコンクールには、海外からも多くの方が参加されています。(2006年文化庁 国の登録有形文化財に指定)


日本最古 生身天満宮

日本最古 生身天満宮

京都府南丹市園部町の小麦山に菅原道真公の邸宅があったと伝えられており、延喜元年(901)に道真公が大宰府に流された時、園部の代官であった武部源蔵が道真公の8男である慶能の養育を頼まれ、小麦山にあった邸内に小さな祠を作り、道真公存命中に像を安置して生祠として奉斎したのが始まりとされている生身天満宮(いきみてんまんぐう)は、「日本最古の天満宮」と言われています。


延喜式に列する 摩気神社

延喜式に列する 摩気神社

京都府南丹市園部町竹井にある摩氣神社(まけじんじゃ)の創始は古く、延喜式に列する名神大社で、「摩気郷十一ヶ村の総鎮守」と称されています。本殿附覆屋1棟・東摂社附覆屋1棟・西摂社附覆屋1棟が、昭和59年に京都府指定文化財で、境内は京都府文化財環境保全地区になっており、周囲に近代的なものがないため、時代劇などのロケ地としても人気があります。


京都帝釈天(福寿寺)

京都帝釈天(福寿寺)

南丹市八木町船枝にある京都帝釈天は、宝亀11年(720)に和気清麻呂により創建されましたが2度の火災に遭い、現在の本堂は貞享4年(1688)に再建されたもの。平成5年に京都府指定文化財に登録されています。古くから「願いごとの叶う神」として親しまれ、およそ700mの参道に、映画『男はつらいよ』の監督とプロデューサーが奉納した寅さんの鐘を含めた108個の「願いの鐘」設置されています。問合先は福寿寺。


ほほえみの仏 木喰仏

ほほえみの仏 木喰仏

江戸時代後期に、日本全国を旅しながら木彫りの仏像を奉納された木喰上人が、京都府南丹市八木町に5か月滞在されました。八木での滞在期間中に28体の仏像を彫り、その内22体の仏像が八木町諸畑の清源寺に保存されています。清源寺には生涯の最高傑作と言われる十六羅漢像があり、ウインクをしたり、歯を見せて笑う、酒を隠して飲んでいるなど人間らしい表情で訪れる方を癒しています。


大送神社の綱引き

大送神社の綱引き

ヘビの形をした縄で南北に分かれて綱引きをし、豊作を占う。
神社を建立するときヘビが出たので、これを討ちとり、その霊を慰めたことが始まりといわれている。


樫原の田楽

樫原の田楽

ビンササラ4人、太鼓4人、笛1人で構成。
ビンササラは足を揃えて前方に3歩とび、3歩下がってささらをする姿がカラスに似ていて滑稽である。五穀豊穣を願い、田を荒らすカラスを追い払うという意味がある。京都府の無形民俗文化財に指定されている。


牧山の松明行事

牧山の松明行事

万灯籠と愛宕信仰が習合した火祭り。大小の松明が夏の夜空を焦がす。
府登録無形民俗文化財。


上げ松(盛郷、殿・川合、芦生)

上げ松(盛郷、殿・川合、芦生)

高さ20mの「灯篭木」という大松明の上にある「火うけ」に松の芯で作った松明に火をつけ投げ入れる。燃え落ちる火が夜空に映え、非常に美しい。五穀豊穣と無火災を祈願して行われる。
府登録無形民俗文化財。

京丹波町

和知人形浄瑠璃

和知人形浄瑠璃

三業一体の妙技が光る「和知人形浄瑠璃」。江戸時代末期に大迫村(現大迫区)で起こったと伝えられています。一人で大ぶりの人形を操る「一人遣い」が特徴で、喜怒哀楽の感情を語り分ける「語り」、場面によって多彩な音色を奏でる「三味線」、この三者が一体となって地元に伝わる物語などを切々と綴って


和知太鼓

和知太鼓

力強いバチさばきと勇壮な響きで魅せる「和知太鼓」。源流となる広野太鼓の起こりは、御伽草子「酒呑童子」に関わりがあるとされており、平安時代中期、天皇の命を受けた源頼光が大江山の酒童子という鬼の討伐に向かう途中に激しい雷雨に見舞われ、広野区の藤森神社で雨宿りをして出陣する際、村人たちが頼光の武運長久を祈願して打ち鳴らした奉納太鼓が始まりと伝えられています。


小畑万歳

小畑万歳

即興ネタで笑いを誘う「小畑万歳」。江戸時代、毎年正月から春先にかけて現在の兵庫県から三人一座の万歳が訪れ、各戸を回って芸を披露していました。その衣装と鼓が小畑地区に残っていたことから昭和9年に地元有志が播磨流の万歳を披露したのが近年での上演の始まりと伝えられています。


文七踊り(伝統芸能)

文七踊り(伝統芸能)

音頭とりと踊り子の粋な掛け合いが魅力の「和知文七踊り」。江戸時代中期から浄瑠璃くずしの音頭が愛好され、そのリズムにのって踊りが生まれたと伝えられています。人形浄瑠璃の代表的な頭「文七」がその名の由来ともいわれています。8月下旬に開催される和知ふるさと祭りでは訪れた人たちが一緒になって文七踊りを踊ります。


京丹波町

質美の曳山行事

竹竿の先に神号を書いた額と御幣を取り付けたものである額が先頭に立ち、神体の人形が飾られた四輪の車を神殿に取り付けた山を中心に、その後を囃子方が中に入って歩く屋台が続きます。神楽は二人立ちの獅子舞で、天狗と二人の奴がそれにつき、一の鳥居および社頭で獅子舞を舞います。お祭りは、笛や太鼓の演奏とともに樹齢数百年を経た老杉の並木が続く約400mの参道をゆっくり練り歩きます。


明隆寺観音堂

明隆寺観音堂

観音堂は室町時代後期の建立とみられ、本尊の木造観音立像は平安時代後期作の一本造りで、聖徳太子が自刻した観音菩薩像のひとつとされています。観音菩薩像のほかに、三十三体の観音像と四天王像が祀られています。また、建立された時代の判明している村堂としては丹波地方で最も大きく古い建造物として国の重要文化財に指定されています。
本尊は60年に一度一般開帳が行われており、平成12年に行われました。


九手神社

九手神社

長元2年(1029)、藤原定氏が京都の松尾大社から勧請し、創建したと伝えられています。三間社流造り、桧皮葺きの本殿は、明応7年(1498)に再建、幾度の補修を経て、昭和9年に解体修理が行われて創建当時の姿となりました。本殿のほか棟札2枚が国の重要文化財に指定されています。


渡邊家住宅

渡邊家住宅

建築年代は定かではありませんが、蕨(わらび)区にある享保10年(1725)の祈祷札からこの頃に建てれらたものより古いとされ、16世紀に遡るといわれています。茅葺き、入母屋造り、平入りの民家で、京都府北部では最古に属し、昭和50年に国の重要文化財に指定されました。


大福光寺

大福光寺

延暦年間(782~806)に建立し、その後、足利尊氏が現在の地に移したと伝えられています。本尊に毘沙門天が祀られていることから「蕨(わらび)の毘沙門さん」として親しまれています。国の重要文化財である本堂と多宝塔、方丈記写本。府や町の指定を受けた文化財を数多く所蔵しています。


質志鐘乳洞

質志鐘乳洞

京都府唯一の鍾乳洞。高低差が大きく、ほぼ垂直な階段で深さ25mの最下層まで降りることができ、コウモリを間近で見ることもできます。ひんやりとした空気が漂う中、ライトアップされた洞内は神秘的な空間を醸し出します。施設内では、バーベキューや魚釣りなどのアウトドアも楽しめます。


琴滝

琴滝

名勝「琴滝」。高さ43mの巨大な一枚岩を流れ落ちる水の流れが13弦の琴糸のように見えることが名前の由来といわれています。滝の爽やかな水音を聞きながら、夏は青々とした木々の中を、秋は鮮やかに色づいた紅葉の中を散策できます。
また、琴滝からの散策道を上がっていくと、須知城跡があり、戦国時代の城砦で野面積みの石垣の一部が現存しています。

福知山市

福知山音頭と踊

福知山音頭と踊

天正年間、織田信長の命により、明智光秀が丹波地方を平定し、福知山城大改修築の際領下の者が、石材・木材を城に運ぶのにドッコイセ、ドッコイセーと手振り足振り面白く唄い出したのが、始まりであると伝えられている。
その後、消長はあったと考えられるが、現在の踊りの型に統一されたのは慶応の頃といわれ、音頭の曲については、潮来地方の情趣を多分に採り入れた独特の優雅さをもち、踊りは地方民踊らしい素朴な味があり、今では全国的に知られるようになった。


額田のダシ行事

額田のダシ行事

福知山市額田地区の氏神一宮神社の毎年10月の秋の例大祭に行われるもので、屋台と呼ばれる山車や上ダシ・下ダシ・御神木の巡行からなる。
山車は二段構造となっており、特徴は上ダシと呼ばれる2階部分が回転することである。このような山車は西日本唯一と云われている。下ダシは、野山の幸を材料として各地区で物語の世界を表現し展示するもので、別名「つくりもん」と呼ばれている。
御神木の巡行は、白装束に黒烏帽子を被った7人の若者が、長さ2間(約3.6m)・4寸角(一辺約12cm)の御神木を持って地区内を巡行する神事。昼過ぎから夜まで巡行は続き、夜遅くに帰社し、御神木を本殿に納める。


丹後二俣紙

丹後二俣紙

福知山市大江町は和紙づくりに適した美しい水に恵まれた土地であり、江戸時代末期から京都府の代表的な和紙の生産地として栄えていたが、時代とともに衰退していき、最盛期200戸余りあった製紙所は、現在田中製紙工業所たった1軒となっている。
和紙の原料である楮の栽培から、楮の処理、紙漉きまで全てを自分たちで行い、伝統的な技法で作られた他にはない和紙は、日本のみならず海外の文化財の修復にも使用されている。


丹波の漆かき

福知山市夜久野町は古くから日本でも有数の漆の産地として知られていた。明治時代にはこの地域に500人もの漆かき職人がいたと云われている。しかし現在、日本で使用されている漆の98%が中国産となってしまい、また、産業の移り変わりにより、全国の漆の産地は次々と姿を消していく。現在も技術を継承している地域は全国でもほんのわずかである。その貴重な技術を継承しているのが「丹波の漆かき」である。「漆かき」とは、ウルシの木から漆液を採取することで、6月頃から特殊な道具で木に傷を付け始め、4日に1回のペースで9月頃まで傷を増やし、漆液を採取していく。通常1本の木から取れる漆の量は牛乳瓶1本程度とかなり貴重な物である。
木はその年の漆かきを終えると根元から切り倒されてしまう。10年以上育った木でないと漆液を採取できないため、技術を継承していくためには、「ウルシの植栽」も漆かき職人にとって大切な仕事となっている。

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野条の紫宸殿田楽

野条の紫宸殿田楽

福知山市上野条地区にある御勝八幡宮で25年に一度開催される御勝大祭で上野条地区の方々が奉納される田楽。
源頼光が酒吞童子を退治する際に御勝八幡宮で必勝を祈願し、その後無事退治し戻って来られたお礼としてこの田楽を奉納したと伝えられている。
ゆっくりした演奏と共に、左右に向きながら足を斜めに出したり、列になっている踊り手が互いに背中合わせになったりして踊る姿は田楽本来の形をよく残していると云われており、変わらず現在まで伝承されている。


天座の田楽

福知山市上野条地区にある御勝八幡宮で25年に一度開催される御勝大祭で天座地区の方々が奉納される田楽で、「烏とび」「ビンザサラ」「猩々舞」の3つの踊りで構成されている。
「烏とび」は裃姿で頭に烏帽子を付けた3人の少年が横一列に並び、笛に合わせて左右に飛ぶ踊りである。
「ビンザサラ」は裃姿の男性が腰には刀、頭に烏帽子、口には榊の葉を咥え、正面を向いて横2列6人ずつ並んで踊り、手には「ビンザサラ」という木の板が88枚繋がった打楽器を持ち、打ち鳴らしながら踊る。
「猩々舞」は2人の青年が緋色の羽織はかま姿、頭にも緋色のカツラをかぶり、扇を持ちながら謡に合わせて踊るもので、能の面影が残されている。武田信玄率いる武田家が滅んだ際に、その家来達が天座地


牧の練り込み太鼓

福知山市牧地区の一宮神社の秋祭りの奉納事の一つで、小太鼓1、大太鼓1をのせた太鼓屋台をめぐって7人の少年がみせる芸打ち。小太鼓の打ち手は一人、神輿かきの服装。大太鼓の打ち手は7人で縞の衣装・豆絞りの手拭い鉢巻・紺パッチ・二色の長だすき・手甲・白足袋・化粧まわしを締め・わらじばきの装束。
打ち方は7人が縦に並んで先頭の者のみが太鼓を打ち、他の6人はそれにならって同様に空間を打つ。打ち方の基本形は「数打ち」、その応用形が「まわり打ち」と「練り込み」の3種類で小太鼓にあわせて打つ。
この「練込太鼓」は昭和41年3月26日、福知山市無形文化財に指定され、更に昭和61年4月15日、京都府無形民俗文化財に認定された。
(「牧一宮神社祭礼記録」牧文化財保存会 昭和62年1月から一部引用)


多保市の笹ばやし

毎年8月16日に福知山市多保市地区の天神社の祭礼として行われる。
1669年(寛文9年)に100日間干ばつが続いたことから不作を危惧した城主が、農民に雨乞いを祈願するよう命じ、祈願祭として行われたのがこの多保市の笹ばやしだと伝えられている。
大人たちが棒で「堰」に見立てた柵を作り、水に浸した笹を持った子どもたちは歓声を上げながら柵を叩き、何度か繰り返した後、柵を倒して駆け抜けていく。この一連の動作は「堰が切れるほどの大雨が降ってほしい」という願いが込められている。
また祭礼内では、年ごとに趣向を凝らした造り物を載せた飾り屋台が、伊勢音頭をはやしながら巡行する。


島田神社本殿 島田神社本殿

島田神社本殿

島田神社の創立は詳らかでないが、中世の豊富庄の総社が当社にあたるとみられる。
現本殿は京都府北部では数少ない中世神社本殿遺構として貴重なもので、内陣内西妻内法貫(にしつまうちのりぬき)の墨書から文亀二年の建立と判明した。また、永正三年(1506)の墨書のある一間宮殿二基も保存されている。
この本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、正面に軒唐破風(のきからはふ)が付く。この正面軒唐破風は当初のものではない。屋根葺材をすでに欠くが、小屋組に当初材の一部が残っている。正面中央間に両開き板戸を構え、両側は欄間(らんま)彫物をはめ込み、格子戸引違、側背面は横板壁とする。内部は内陣を三室に区画し、各外陣(げじん)境に板扉を構え、両端室には宮殿が置かれる。縁は正面にのみ残り、側面部のものは失われる。

丹波地方には、室町時代建立の神社本殿遺構が十数棟確認されているが、いずれも保守的な形式技法を踏襲し続けており、島田神社本殿も、全体としてはその流れのなかにあるが、身舎組物(もやくみもの)・頭貫木鼻(かしらぬききばな)・身舎正面の欄間・蟇股(かえるまた)・手挾(たばさみ)・花肘木(はなひじき)・拳鼻(こぶしばな)等の細部意匠に変化をもたせており、工匠の創意工夫が認められる。市内唯一の中世の建築物であり、貴重な資料である。
なお、平成十八年度から三ヵ年に渡る解体復原事業により、平成二十一年の春、五百年の時間を経て創建当初の姿が現代に蘇った。


天寧寺

天寧寺

天寧寺は福知山の北方の山間に所在する臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で、貞治四年(1365)地元の地頭大中臣宗泰(おおなかとみむねやす)が自らの氏寺に愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)を開山として招いたことから始まる。足利義持ら室町将軍家の帰依を得て寺は隆盛に向かい、当時奢美に流れる五山に抗して独自の厳格な禅風を守った。戦国期になると有力な外護者を失って荒廃したが、江戸初期になって復興された。安永六年(1777)の火災ですべてを失ったあと、庫裏(くり)、方丈(ほうじょう)、開山堂、仏殿(薬師堂)などが再建されたが現在は開山堂と仏殿のみが残る。

薬師堂は寛政六年(1794)に建立され、方三間(ほうさんげん)裳階(もこし)付という禅宗仏殿の正規の形式を持つのが特色である。
当薬師堂は、丹波・丹後を通じて唯一の方三間裳階付の仏殿形式を残している堂として貴重であるが、完成された仏殿形式をそのまま踏襲するのでなく、平面及び構造計画に近世の特徴といえる自由で合理的な扱いをみせ、また細部装飾に大工の優れた技術が示されている点で、近世建築のひとつの到達点を示す遺構といえる。

開山堂は寛政五年(1793)の建築で、薬師堂の向って右に並ぶ。六角円堂で土蔵造りという珍しい形式をもち、内部は四半瓦敷の外陣(げじん)と木階(ぼくかい)を備えた板敷の内陣に分けられる。堂全体に、放射状に入れた棹縁(さおぶち)で受ける天井を張り、内陣の前面に蓮弁をかたどった装飾を戴くなど、六角形という特異な平面をうまく処理し、随所に独創性を発揮した建築として貴重である。


天寧寺 観音寺

観音寺

観音寺は、福知山市の東方、由良川の南にある小高い丘の北麓に寺地を占める。北向に仁王門を開き、南にのびる参道の西側に庫裏(くり)や表門、土蔵など本坊を配し、東側に本堂など主要伽藍を構える。法道上人が開き、応和元年(961)に空也が再興したと伝え、中世以降、北条氏や足利尊氏などの庇護を受けて発展し、近世には綾部藩主九鬼(くき)氏ほか、広く崇敬を集めた。

本堂は、参道から東側に石段を上がったところに西面して建つ。天正七年(1579)に再興した旧本堂が大破したため、天明四年(1784)に柱立、棟上、瓦葺等を行い一応の完成をみた。その後、寛政七年(1795)に擬宝珠(ぎぼし)などが取り付けられ、天保四年(1833)に内陣回りの欄間がはめられ、現在みる形となった。
大工は寺蔵文書より「備前國色奥郡上山田村太郎兵衛」とわかる。この大工は天寧寺の薬師堂や開山堂(いずれも京都府指定文化財)の大工と同一人物であると考えられ、当本堂竣工後、天寧寺に取り掛かったようである。観音寺本堂が和様(わよう)を主体とした意匠でまとめられているのに対し、天寧寺薬師堂は禅宗様仏殿であり、太郎兵衛は両様式に通じた大工であったと考えられる。欄間の彫刻は、金剛院本堂や光明寺本堂の向拝彫刻を彫った中井權次橘正貞の作である。

境内には他に江戸時代のものとして、鐘楼と表門が残っている。鐘楼は、本堂の西北に建つ。切妻造、桟瓦葺(さんかわらぶき)で、吹き放しとする。鐘を突く位置の腰貫(こしぬき)を省略し、内法貫の中央を折り上げるなど、突きやすいように工夫されている。但馬国朝来(あさご)郡竹田町の大工によって、寛政元年(1789)に建てられた。
表門は両袖付きの棟門で、本坊の正面に建つ。屋根を段違いに見せる特殊な外観や挿肘木(さしひじき)を四段に組む大仏様風の斗など、外観、細部ともあまり例のない建築である。江戸時代後期ごろに本堂と相前後して建てられたものと考えられる。


大原神社

大原神社

大原神社は、丹波志によると、仁寿二年(852)に美山町の樫原に神霊が宿り、弘安二年(1279)に大原氏が三和町大原に移したとされている。祭神伊邪那美命(いざなみみこと)、天昭大日霎命(あまてらすおおひるめのみこと)、月読命(つきよみみこと)で、古事記によると、伊邪那美命は伊邪那岐命とともに万物をつくった女神とされることから、安産と五穀豊穣の守り神として、古くから崇められてきた。特に安産祈願の習俗としての子安砂(安産守護)は有名で、近世では綾部藩を治めた九鬼氏は、奥方が身ごもった時は、必ず大原神社に参拝したと言われ遠く宇和島藩からも世子安産の代参が送られている。現在も、出産の無事と子どもが健康に育つことを願って、多くの人々が大原神社を訪れている。

現在の大原神社の本殿は寛政八年(1796)に建立された。本殿は、梁行二間(梁の長さ十一尺(約3.6m)の切妻造で、幣殿を介して拝殿とつながる権現造式の社殿形態となっている。拝殿は入母屋造桧皮葺)で、正面中央に大唐破風の向拝が付いた豪華な彫刻が施された華麗な社殿となっている。

大原神社本社に付属する摂社の火神神社本殿は、明暦三年(1657)に建造された。形式は一間社流造、正面軒唐破風付、柿葺。この本殿履屋は桁行正面一間(約1.8m)、背面四間(約7.2m)、梁行四間一重、切妻造、向拝一間、唐破風造、桧皮葺。昭和六十一年(1989)屋根の葺きかえが行われた。
末社水門神社本殿も、明暦三年(1657)の建造とされ、一間社流造、柿葺。大正十三年(1924)桧山綾部線の道路開削にともない現在の位置へ移転された。
絵馬殿は、文久三年(1863)に建立され、三十五面にのぼる絵馬が奉納されている。絵馬殿は桁間八間(14.4m)、梁間五間(約9m)で更に六間三間(約10.8m×5.4m)の舞台を付けた茅葺のもので、規模や大きさ形とも全国的にもめずらしい。絵馬殿には、かつて舞台が設けられており、江戸時代の庶民文化の華、人形文楽や狂言、芝居が行われ、庶民の娯楽や親睦の中心的な役割を果たしてきた。


一宮神社

一宮神社

一宮神社は、正徳四年(1714)の火災により本殿をはじめすべての建物を焼失し、享保二年から四年(1717~1719)にかけて現在の社殿が再建されたもので、境内中央に一宮神社本殿が、境内社として本殿後ろ東側から大原・武大・八幡・天満神社本殿が、それぞれ北面して整然と建っている。

本殿は、享保三年(1718)に建てられた一間社流造、檜皮葺(ひわだぶき)の大型のもので、大工棟梁は藩の御大工が務めている。装飾に桃山時代風の意匠がみられるが、地方化した若葉の絵様も施されており、飾りたてることなくあっさりまとめている。
神社本殿群は、武大神社のみ時代差があるが、江戸時代中期に建てられた神社本殿建築が、一間社流造という共通の形式のもとに整然と並び、大工が福知山の者であったり、大阪の者であったり、また藩の御大工など各地で活躍した大工の特徴を、細部様式の中にあらわしている神社本殿群として貴重なものである。

能舞台(市重要)は、この地方唯一の能舞台である。構造的には舞台と橋掛(はしが)かりを主体とするもので、正式の楽屋や鏡の間は残っていない。間口奥行きとも4.9mの舞台と、幅4.9m奥行き2.2mの後座をもち、幅2m長10mの橋掛かりが付く。 この舞台はもともと、安政四年(1857)城南の小丘(現在の東岡町)にあった朝暉(あさひ)神社境内に藩の普請方によって建立されたものである。明治七年(1874)に一宮神社に払い下げとなり、翌年現在地に移築されたものである。


圓覚寺

圓覚寺

圓覚寺は観音菩薩を本尊とする曹洞宗寺院で、福知山に所在する久昌寺の末寺。本堂上梁銘によれば慶長十三年(1608)の創建と伝える。当寺は福知山藩主朽木家の公墓所とされる。本堂は棟札より天保十五年(1844)の建立で、慶応三年(1867)に十二代綱張の埋葬に伴って正面に向拝を設ける。平面は六間取の方丈形式で、内陣後方に弾宗様須弥壇を設け、来迎柱筋には尾垂木付の二手先組物を詰組に配するなど仏堂風の意匠をもつ。


一宮神社 能舞台

一宮神社 能舞台

福知山市字堀 一棟 桟瓦葺

この地方唯一の能舞台である。構造的には舞台と橋掛(はしが)かりを主体とするもので、正式の楽屋や鏡の間は残っていない。間口奥行きとも4.9mの舞台と、幅4.9m奥行き2.2mの後座をもち、幅2m長10mの橋掛かりが付く。
この舞台はもともと、安政四年(1857)城南の小丘(現在の東岡町)にあった朝暉(あさひ)神社境内に藩の普請方によって建立されたものである。明治七年(1874)に一宮神社に払い下げとなり、翌年現在地に移築されたものである。


願来寺地蔵堂

観瀧寺山門

福知山市字榎原 一棟 一間薬医門、脇戸付、切妻造、桟瓦葺

規模の大きい、雄大な薬医(やくい)門。冠木は台輪に近い構造になり、女梁が省略されている。
比較的良好な保存状況にあるが、軒から上に新材が混じる。当初は本瓦で葺かれていた可能性が大きい。
脇の柱には塀が取り付いていた痕跡が残っている。


観瀧寺南門

観瀧寺南門

福知山市字榎原 一棟 高麗門、桟瓦葺
鏡柱間に対して内法が低く、水平感が強い建物。主構造は山門と同様に、軸太で力強い。垂木から上はすべて新材に変わり、瓦にも2、3種類のものが混じっていることから、数度の修理があったことがうかがわれる。
屋根は、現状の桟瓦葺より、むしろ本瓦葺のほうがふさわしく、後世に改変されたと考えるほうが妥当であろう。また、当初は門の両側に、軸塀と脇戸が取り付いていたと判断される


正眼寺山門

正眼寺山門

福知山市字寺 一棟 高麗門、脇戸付、本瓦葺
金具が銅でできているため、銅門(あかがねもん)と称される。丁寧なつくりで、瀟洒な印象である。修理が施されたが、ほぼ建立当初の形式を保っている。


法鷲寺山門

法鷲寺山門

福知山市字下紺屋 一棟 高麗門、本瓦葺
内法が高く、豪壮な風を持つ大形の高麗門。軒桁より上は、鬼瓦を除き、部材が新しくなっている。修理の際に、垂木割も変更されたようである。しかし、肘木から下はよく保存されている。また、袖塀は、形式が当初とは変わっているようである。


明覚寺山門

明覚寺山門

福知山市字呉服 一棟 高麗門、本瓦葺
比較的細い部材で構成される軽快な門である。修理が施されたが、形式はほとんど当初のままである。


願来寺本堂

願来寺は薬師如来を本尊とする高野山真言宗の寺院である。創建年代は不明だが、空也が開山し、泉教によって寛永六年(1629)に中興したと伝わる。本堂は寺伝によれば寛延元年(1748)再建とされ、細部様式からもこの頃の建物と考えられる。規模の大きな三間堂で背面に位牌堂が突出する。軒から上の部分や建具は近年の修理で新調されているが、正面は内開きの蔀戸(しとみど)であった痕跡が残る。本堂内部は一面に床が張られているが、大虹梁と海老虹梁を架け渡して格天井を受け、四周を化粧屋根裏とするなど、弾宗様仏殿に倣った架構をもつことや、柱上で組物の手先を出して化粧隅木を受け、木鼻や拳鼻を重ねて賑やかに飾ることも特徴である。


願来寺地蔵堂

願来寺は薬師如来を本尊とする高野山真言宗の寺院である。創建年代は不明だが、空也が開山し、泉教によって寛永六年(1629)に中興したと伝わる。地蔵堂は宝永七年(1710)再建と伝わるが、細部様式から十八世紀後半の建物と考えられる。入母屋造の小堂に向拝を付け、正面は差鴨居を入れて柱間を飛ばす。内部には仏壇に千体地蔵を安置しており、組物は大斗絵様肘木で巻斗を用いず手先肘木を重ねて丸桁を受ける。側周りの建具はすべて新調、木部も塗装が施されているが、隣の観音堂とともに境内の主要な景観要素となる建物である。


願来寺観音堂

願来寺は薬師如来を本尊とする高野山真言宗の寺院である。創建年代は不明だが、空也が開山し、泉教によって寛永六年(1629)に中興したと伝わる。観音堂は寛政元年(1789)再建され、細部様式からもこの頃の建物と考えられる。宝形造の小堂に向拝を付け、正面は差鴨居を入れて柱間を飛ばす。内部には仏壇に如意輪観音を安置する。組物は大斗絵様肘木で巻斗を用いず手先肘木を重ねて丸桁を受ける。側周りの建具はすべて新調、木部も塗装が施されているが、隣の地蔵堂とともに境内の主要な景観要素となる建物である。


龍源寺本堂

龍源寺は聖観音を本尊とする曹洞宗寺院で、寺伝によれば永平寺二十四世龍察を開山とする。創建年代は不明であるが、寛永頃までは密教系寺院であったといわれる。安永八年(1779)に諸堂残らず焼失し、天明元年(1781)に再興されている。本堂は墨書銘及び細部意匠から寛政二年(1790)の建立と考えられ、天明以降に再建された諸堂の一つ。六間取の方丈形式で、後列中央の内陣のみ、仏堂風の意匠となり、内陣以外は畳敷きで、特に後列上間は床と長押を備えた書院風の意匠を持つ。


龍源寺阿弥陀堂 (旧惣堂)

龍源寺は聖観音を本尊とする曹洞宗寺院で、寺伝によれば永平寺二十四世龍察を開山とする。創建年代は不明であるが、寛永頃までは密教系寺院であったといわれる。安永八年(1779)に諸堂残らず焼失し、天明元年(1781)に再興されている。阿弥陀堂は棟札及び細部意匠から寛政元年(1789)の建立が明らかで、天明以降に再建された諸堂の一つ。棟札から、村人百人余りの寄進で建てられたことがわかり、惣堂としての役割が窺える。建具を入れずに吹き放しとした構造で、正面には三間通しの差鴨居を入れて柱間を飛ばす。縁は廻さないが堂内一面床を張り、背面中央に寄せて仏壇を設ける。仏壇脇の小堂は別の建物からの移築と見られ、細部様式から阿弥陀堂建立以前に遡る。


観音寺本堂(大江町南山)

観音寺は高野山真言宗に属し、室尾谷山と号する。寺伝では和同七年(714)行基による開基で、行基が大和国室尾山で長谷寺の本尊の余木で十一面観音像を彫り、本尊としたと伝える。 本堂は明治五年(1872)建立と伝え、向拝手狭等絵様の彫りの深さからも十九世紀後期の建立とみられる。平面は方三間の内陣の四周に入側を廻し、方五間とする。正面一間通りを吹き放ちの外側、両脇間一間を脇陣、背面中央三間を裏堂とし、裏堂には内陣側から半間ほど突出して須弥壇・脇壇を設ける。内陣の各柱間には欄間彫刻を掲げ、須弥壇周りには極彩色を施すなど、建物全体を華やかに彩る。向拝に修理による部材の取替が認められるが、近世の流れを汲んだ明治期の大規模本堂の姿を伝える。


観音寺仁王門(大江町南山)

仁王門は本堂北西の谷筋に所在し、寺伝では明和年間(1764~71)の建立と伝え、頭貫木鼻の細部意匠から判断しても、十八世紀後期に建てられたとみられる。平面は三間一戸八脚門で、両脇背面一間に床を張り、仁王像を安置する。屋根は現在鉄板葺であるが、妻の立ち位置等を考慮すると元は茅葺であったと考えられ、全体として本堂と比べて質素な造りとなるが、往年の伽藍を偲ばせる主要な建物である。


浄仙寺本堂

浄仙寺は天輝山と号す浄土宗寺院で、応永十一年(1404)河守城主新治内蔵佐持忠の開基と伝え、新治氏の菩提寺であったという。
本堂は寺蔵の記録から天保三年(1832)建立と伝え、向拝正面の竜の彫物には「中井権次橘正貞」の刻銘が確認できることからも、このころの建立と考えられる。平面は正面一間通りを広縁とし、外陣を凹型に展開して、その両脇間の後方に奥行半間の脇陣を、中央間に外陣と背面に張り出す形で内陣を配する。内陣正面の柱は丸柱とし、柱上に斗を組んで大虹梁を正側面に架け渡す。
内陣正面の丸柱及び宮殿廻り等を彫刻や絵様で飾る本格的な本堂建築で、宮殿上の二重折天井等に大工の技量の高さが伺える。


浄仙寺観音堂

福知山市大江町河守
土蔵造 宝暦元年(1751)

観音堂は本堂の南西に東面にして建つ。本堂・山門と比較して木鼻・虹梁等の絵様の線が繊細であることから、寺蔵の記録にある宝暦元年(1751)が建立時期と考えられる。土蔵造で堂内を一室として使い、正面に切妻造妻入の向拝を付ける。向拝正面の頭貫は虹梁型とし、中央に鳳凰の彫刻を載せ、柱上に組物を組む等、装飾性に富んだ正面構えとなる。背面側に半間増築が見られる以外に大きな改変はなく、建立当初の姿をよく伝える。


浄仙寺山門

楼門は本堂の絵様肘木と外形が類似することから、寺蔵の記録にある文政三年(1820)が建立年代と考えられる。

一間一戸、入母屋造、桟瓦葺の鐘楼門で、上層は桁行梁行ともに三間とする。
通常、梁行中央に吊られる下層の門扉を正面側に寄せ、上層の前から二本目の柱筋に合わせ親柱筋を配置する。一部に改造や修理による部材の取替が見られるが、旧態をよく残し、福知山市域でよくみられる上層の梁行が三間となる鐘楼門の一形式を伝える。


専福寺本堂

專福寺は浄土真宗本願寺派に属する。「丹波志」によれば、山中区にあった普光寺が前身とされ、寛永七年(1630)に現地に寺地を移し、天台宗から真言宗に改めたと伝える。
本堂は、棟札より明和二年(1765)の建立と判明し、虹梁絵様などの細部意匠からも同時期のものとわかる。
前方二間を外陣とし、後方二間の中央間を内陣、両脇一間を余間として、半間後方に延長して脇壇を設ける。三方に濡縁を廻らし、外に柱を建てるが、柱上に四周に桁を組んでおり、背面庇下は後世の増築と考えられる。外陣中央間および内陣の天井を折上天井としているところが特徴的で、内外陣境に双折金障子、脇陣外陣の境には四枚の襖を納め、内陣・脇陣正面の欄間を立体感あふれる彫刻で飾るなど、近世真宗寺院本堂の特徴をよく示している。


専福寺楼門

楼門は宝暦二年(1752)の銘を持つ梵鐘を吊るし、下層柱上の木鼻・虹梁絵様が本堂向拝のものと類似することから、本堂と同時期の十八世紀中期の建立と考えられる。
上層は桁行梁行ともに三間となり、撞木を妻側に吊るす点は福知山市域の鐘楼門にみられる形式である。

上層柱上に頭貫・台輪を渡し、木鼻付平三斗を組んで丸桁を受ける。棟札から明治十一年(1878)、昭和五十七年(1982)に修理があったことがわかり、化粧垂木より上の部材が取り替わるが、そのほかの部材はよく残っており、全体的に装飾を抑えた簡素な造りの鐘楼門である。


東光寺本堂

東光寺は高野山真言宗に属し、天正十九年(1591)開山の寺院であるが、享保十三年(1728)・文化八年(1811)に火災にかかり、寺院についての記録や建物を失っている。
本堂は文化年間の火災後の文政二年(1819)の建立と伝える。また、室内の欄間には龍や鳳凰の透谷が彫られ、中井権次正貞(1780~1855)の刻銘が確認できることから、この時期の建立の可能性は高い。
平面は六間取で背面中央に仏間が突出して付属する。下間前室を式台付の玄関としてその脇から正側面の二方に広縁を廻す。広縁外部の内法長押と丸桁の間には、絵様を施した虹梁を架け、隅柱には彫刻を施した木鼻を付け、前室境及び仏間と仏間前室境には彫刻欄間で華やかに飾り付ける。玄関の機能を下間前室に取り込み、正側面二面を意識した外部の装飾など、小規模な真言宗寺院本堂の一形態を示している。


東光寺楼門

東光寺は高野山真言宗に属し、天正十九年(1591)開山の寺院であるが、享保十三年(1728)・文化八年(1811)に火災にかかり、寺院についての記録や建物を失っている。
本堂は文化年間の火災後の文政二年(1819)の建立と伝える。また、室内の欄間には龍や鳳凰の透谷が彫られ、中井権次正貞(1780~1855)の刻銘が確認できることから、この時期の建立の可能性は高い。
平面は六間取で背面中央に仏間が突出して付属する。下間前室を式台付の玄関としてその脇から正側面の二方に広縁を廻す。広縁外部の内法長押と丸桁の間には、絵様を施した虹梁を架け、隅柱には彫刻を施した木鼻を付け、前室境及び仏間と仏間前室境には彫刻欄間で華やかに飾り付ける。玄関の機能を下間前室に取り込み、正側面二面を意識した外部の装飾など、小規模な真言宗寺院本堂の一形態を示している。


東光寺鐘楼

鐘楼は虹梁絵様の細部意匠から、文化八年(1811)の火災を免れた十八世紀中期の建立と考えられる。
柱を四方転びに建て、柱上に頭貫・大輪を渡して組物を置く。
桁行方向にかけた大梁に梵鐘を吊るす一般的な鐘楼と異なり、梁行方向に架けた虹梁に吊るす点が珍しく、小規模ながら梁が連続する様が意匠的に優れた鐘楼である。


本光寺本堂

本光寺は浄土真宗大谷派に属する。創建及び来歴については詳らかではないが、もとは松平忠房時代(慶安~寛文年間)の福知山城主松平氏の菩提寺で、福知山城下図では木村口門内の北に描かれ、松平氏の島原移封に伴い移転したと伝える。
後方二間の中央間を内陣、両脇一間を余間として、半間後方に延長して脇壇を設けるが、余間中央に襷欄間を入れ、前後室に区画する点が特徴的である。内陣正面は柱を省略して引違の金障子を六枚建て込み、内陣・余間正面は彫刻欄間を飾るなど装飾に富むが、專福寺本堂に比べてややおとなしい意匠であり、古い形式を伝えているとみられる。


本光寺楼門

楼門は棟札から天保十一年(1840)の建立で、地元直見の大工作と判り、虹梁絵様等の細部意匠も同時期のものである。
上層は桁行三間、梁行は正面を向かせて右手で二間、左手で三間とし左手側に撞木を吊るす。棹縁天井の棹縁を扇状に配り、梁を見せずに梵鐘を吊り下げる。專福寺楼門と基本的な構成は似るものの、自由闊達な意匠等に当地域の大工技術の発達がみられる。


東光寺鐘楼

鐘楼は虹梁絵様の細部意匠から、文化八年(1811)の火災を免れた十八世紀中期の建立と考えられる。
柱を四方転びに建て、柱上に頭貫・大輪を渡して組物を置く。
桁行方向にかけた大梁に梵鐘を吊るす一般的な鐘楼と異なり、梁行方向に架けた虹梁に吊るす点が珍しく、小規模ながら梁が連続する様が意匠的に優れた鐘楼である。


大信寺山門

臨済宗妙心寺派の大信寺山門は、石垣を築いた小高い地に境内を占め、南向きに山門が開く。
山門は、一間一戸入母屋造りの楼門で、屋根は桟瓦葺き、上層には逆蓮頭の擬宝珠付縁高欄が四周する。柱には粽をつけ、台輪を廻して禅宗様の出組斗きょうで桁を支持し、正背面の左右の柱間には丸窓、正面中央間には火灯窓をあけ、軒は二軒の扇垂木とするなど、その構成は細部に渡り禅宗様の形式で纏められている。ただし、組物を詰組としない点は、小規模な楼門であり、軒廻りが煩雑になるのを避けたためであろうか。なお、四周各柱間の台輪上には、小ぶりながら波を象った彫刻が抜かりなくあしらわれていて、細部に至る気配りが感ぜられる。
大信寺には、文政十一年(1828)銘の「奉再建瑠璃光殿」と「奉再建香厳城殿」の二つの棟札が伝えられている。瑠璃光殿は後に焼失した薬師堂とみなされるし、同寺の境内を描いた天保期と思われる家相図にも、他に香厳城殿に相当する建築は認められないことから、山門が香厳城殿に相当するとしか考えられない。

現段階ではこの棟札が山門のものであることの確証は得られないものの、山門の建築年代は、下層の袖柱に架け渡された大虹梁の絵様や木鼻の様子などから十九世紀前期とみなされ、棟札と矛盾しないことから、文政十一年をこの門の建築年とみなして大過ない。
大信寺山門は、禅寺にふさわしく禅宗様の楼門形式をとり、規模は小振りながら意匠は細部に渡り充実している。また、石垣上部の境内との比高差から、本堂から望むと山門が埋もれて見えるという、その特異な立地条件も注目される。
福知山市域にて稀少な楼門形式をとる同寺の山門は、同市における近世禅宗伽藍の優れた作例として貴重である。


瑞林寺山門

福知山市夜久野町板生 一棟 薬医門、切妻造、桟瓦葺
福知山城の城門を移築したものである(明治六年の廃城令以後、明治十年頃までの間に移築されたと考えられる。)しかし、福知山城のどの門を移したものかは不明である。  扉には先端が大きく広がった八双金具を飾り付けている。


照仙寺山門

福知山市字堀 一棟 長屋門、寄棟造、桟瓦葺
長屋門(ながやもん)様式で旧福知山城の城門を移築したものと伝えられる。太鼓門(たいこもん)との説もあるが、来歴を裏付ける文献は確認できずその真贋は不明である。一方、比較的規模の大きな長屋門であることから藩主級の屋敷門である可能性も指摘されている。

照仙寺は現在地にいたるまで寺地を2度移転しており、この門も屋根等に一部後補もみられるが、当初の部材も多く伝えており、福知山城郭内の様相を今に伝える貴重な遺構である。


綾部市

国宝光明寺二王門/木造金剛力士立像 国宝光明寺二王門/木造金剛力士立像

国宝光明寺二王門/木造金剛力士立像

聖徳太子が創建したと伝わる光明寺の麓に鎌倉時代前期(1248年)に建立されました。1階と2階両方に屋根を持つ二重門は歴史考証の観点からも珍しく、昭和29年に国宝に指定されました。京都府北部の建造物では唯一の国宝です。(写真上)

木造金剛力士立像
作者はわかっていませんが、鎌倉時代に光明寺二王門の建立とともに置かれたと考えられています。令和元年に国の重要文化財に指定されました。国宝の門の中に国指定の金剛力士像が置かれているのは京都府内で唯一、全国でも4例目と貴重です。


私市円山古墳

私市円山古墳

直径約70m、高さ約10mの府内最大規模の円墳で、築造時期は5世紀中ごろと推定されています。高速道路の予定路線内で発掘調査をした際に明らかになった古墳で、当時の姿を復元したその下を高速道路が貫通しているという珍しい景観となっています。国の史跡名勝天然記念物に登録されています。


綾部大橋

綾部大橋

昭和4年に架けられた綾部大橋は、橋長210m、径間長29m、幅員5.2mで、道路橋では京都府北部で唯一の国の登録有形文化財です。1スパン約30mのボーストリング・トラス(ドイツのハーコート社が開発したプレハブ橋)を7つ連続して架け渡しており、木造で造られた旧橋の形式が踏襲されています。


 岩王寺本堂・仁王門

岩王寺本堂・仁王門

10世紀半ばに空也上人により建立したと伝わる寺で、足利尊氏が挙兵の際に戦勝祈願をしたとされています。本堂や仁王門は11世紀半ばに建立されたとみられ、京都府登録有形文化財に登録されています。


安国寺

安国寺

室町時代初代将軍の足利尊氏が生まれたとされる寺で、もとは光福寺という上杉氏の氏寺でしたが、尊氏が全国に安国寺を建立した際、諸国安国寺の筆頭となりました。尊氏の母上杉清子がこの像に男子出生を祈願したといわれる木造地蔵菩薩半跏像や、木造釈迦三尊坐像など、国の重要文化財や京都府指定文化財などの多くの文化財を有しています。


黒谷和紙

黒谷和紙

平家の落人がこの地に隠れ住み、生計を立てるために始めたのが黒谷和紙の始まりといわれています。800年以上の歴史をもち、日本一強い紙といわれる黒谷和紙は、文化財の修復などにも使用され、京都府無形文化財に登録されています。


島万神社例大祭(太刀振・太鼓踊奉納)

島万神社は、須佐之男命を祀った神社で、安産・病気平癒の神として知られています。 例大祭当日は、氏子達が参道を掛け声をかけながら境内に練り込んだ後、400年前から伝わる芸能、太鼓踊と太刀振を奉納します。 これらは地域や子孫繁栄、厄除けや雨乞いを願って奉納されるもので、京都府登録無形民俗文化財と、綾部市指定無形民俗文化財に指定されています。


於与岐八幡宮・秋季大祭

於与岐八幡宮は、和銅3年(710年)、九州の宇佐八幡宮より分霊されたと伝わる神社で、現在の本殿は約300年前に建立されたものです。 大祭当日は、神輿が神社の周囲をまわった後、獅子舞・天狗の鼻高の舞が奉納されます。 これらの一連の祭礼芸能は、鎌倉時代に京都周辺で流行したものをよく伝えており、京都府無形民俗文化財に登録されています。


阿須々伎神社祭礼芸能

毎年、節分の日にお宝田の茗荷の上り方でその年の稲作の出来栄えや風雨日照りの様子を占う「茗荷祭」が行われます。10月の祭礼芸能は、氏子の中から選ばれた射手が金的を撃つ「由美の神事」が行われるほか、「太刀振り」「風流踊り」「狂言」などの郷土芸能が奉納され、京都府無形民俗文化財に登録されています。

京北

山国隊軍樂

山国隊軍樂

幕末に京北の農民たちで結成され、戊辰戦争を戦った山国隊。
彼らが行進の際に奏でていた、小気味よい太鼓のリズムや、美しい笛の音を受け継いだものが、今の山国隊軍楽です。
10月の上旬、山國神社の還幸祭で見ることができます。


矢代田楽

矢代田楽

日吉神社には、室町時代初期から継承されてきた田楽踊りがあります。矢代(地区)の日吉神社の秋祭り(10月15日)に奉納されるもので、かなり動きの激しい踊りで芸能史的にも素人田楽としての価値が高く、京都府無形民俗文化財にも指定されています。


小塩の上松

小塩の上松

山国地域の小塩(地区)では盂蘭盆となる毎年8月23日に最も近い土曜日の晩、愛宕神社に献灯するために行われる火の祭典「上松」神事を行っています。

お城・城跡

丹波亀山城跡

丹波亀山城跡

明智光秀が丹波平定の拠点として丹波亀山城を築城。
光秀の死後、歴代の城主による城郭の整備を経て、1610年に層塔型の五重の天守をもつ近代城郭として完成した。1877年には天守解体となり、現在は石垣を残すのみとなっているが、堀跡は南郷公園として親しまれており、明智光秀公像がたたずんでいる。


余部丸岡城跡

余部丸岡城跡

古くから口丹波地域随一の軍事拠点として知られる。
明智光秀による丹波進攻の際、周辺の城や砦の諸将たちは戦わずして服属したり、城を捨てて逃げた者が大半の中、城主の福井因幡守貞政は籠城し頑強に抵抗した後に切腹して自害したと伝わる。現在は西岸寺。通常版の他に季節限定版の御城印あり。


神尾山城跡

神尾山城跡

京都府亀岡市、篠山街道沿いに位置する山城で、城主は野々口西蔵坊といわれる。天正7(1579)年八上城主波多野秀治は、明智光秀により攻め落とされ降伏したが、秀治は一時的にこの神尾山城に連れてこられ、その後、安土に送られ処刑されたと伝わる。現在は石垣や土塁、虎口などが残る。


笑路城跡

笑路城跡

亀岡市西別院町にある城跡で、別院地域の領主、長澤氏の居城で松尾城ともいわれる。長澤重綱が息子の家綱にあてて残した遺書によれば、「明智日向守光秀朝臣亀山の在城して国中を責したがえ松尾の城も度々軍兵を差し向けられるといえども、堅固の地なればきびしく守りて従わず」とあり、笑路城が堅固の城であったことが窺える。現在は、石垣や櫓台、虎口などが残る。


園部城址

園部城址

城門や隅櫓、城壁の一部が昔の面影を残す園部城跡。現在は、京都府立園部高校の校門になっている。この城は、江戸時代初期に初代藩主の小出吉親によって築かれた。幕府の許可が得られず、天守閣のない陣屋でしたが、明治政府になって許可され園部城となったことから「日本最後の城」と称されている。巽櫓・校門(城櫓門)・番所(城番所)は府の暫定登録文化財に登録されている。


八木城跡

八木城跡

京都府南丹市八木町の南西部にあり城山一帯に築かれた山城。地域最大級の規模を誇り、黒井城・八上城と共に丹波三大山城といわれている。八木城は丹波守護細川氏の守護代をつとめた内藤氏の居城でキリシタンとして知られる内藤ジョアン(内藤如安)ゆかりの城としても有名。


宍人城跡

宍人城跡

戦国武将の明智光秀が丹波を攻める際に軍略を練った場所とも伝わる南丹市園部町宍人(ししうど)の山城。小畠氏によって築かれたと伝わる。戦国末期の山城が手つかずで残っているのは珍しい。


今宮城跡

今宮城は秦河勝の後裔と称する川勝氏の居城として知られている。川勝氏は足利将軍に仕えていたが、織田信長が畿内を制圧し、家臣の明智光秀が丹波へ侵攻するとこれに従って活躍。その後も豊臣氏、徳川氏に仕えている。現在城址には土塁や竪堀などの遺構が残っており、主郭部の北西側には尾根を遮断する大きな四重堀切がある。また少し南にある光照寺は川勝氏の菩提寺で、川勝光照の木像がある。


埴生城跡

埴生城跡

築城された年代は不詳だが、野々口左衛門尉親永によって築かれたと伝えられている。織田信長の部将明智光秀と八上城主波多野氏が対立したとき、野々口西蔵坊(清親)が間に入って仲を取り持ったという説が残る。


須知城跡

須知城跡

須知城は標高384mの城山の山頂にあった城で、琴滝の左側の沢を約200m上ると東西に走る尾根に達する。この尾根を左にとって登ると第一の郭に達し、さらに登って行くと数個の郭を経て石塁のある郭につく。これが本丸である。山は急峻で自然の要塞となっていて、戦術的価値はあったと思われる。築城は室町時代初期であり、室町時代から戦国時代の城砦であった。城主は須知氏である。


中畑城跡

中畑城跡

築城年代は不明だが、那須与一の末裔とされる北一ノ正(きたいちのかみ)によって築かれたと推測される。南北朝時代に北道氏(きたみちうじ)の代に、本格的な山城として改修され、この地は京都と丹後、氷上方面を結ぶ交通の要として栄えた。現在、城跡は曲輪跡の他、虎口や堀切などが確認できるよう整備されている。また、本丸跡には石碑や案内板なども建てられている。


福知山城

福知山城

1579年頃、丹波を平定した明智光秀が築いた城。明治初めに石垣と一部の遺構を除いた大部分が取り壊されたが、1986年に市民の「瓦一枚運動」により3層4階の天守閣が復元された。天守閣からは城下町や山々などの景色が一望できる。城内部は、城に関する資料などを紹介している。


猪崎城跡

猪崎城跡

猪崎城は、福知山城とは由良川を挟んだ対岸にあり、織田信長に命じられた明智光秀が丹波攻略を行った際の敵方となる塩見氏の居城である。三段池公園に含まれる小高い丘の上にあったこの山城は、現在でも遺構が良好な状態で残っており、城山公園として整備されている。また頂上からは福知山市内が一望できる。


河守城跡

河守城跡

福知山市大江町河守集落の西側に位置する丘陵地に位置する城跡で、現在の京丹後市峰山町から逃れてきた新治氏によって築かれたと伝わる。約200年に渡り新治氏が居城とした。


鬼ヶ城

鬼ヶ城

酒呑童子の手下である茨木童子が棲む城だったと伝わっています。茨木童子をデザインした「御城印」を日本の鬼の交流博物館と福知山城で販売中です。


山家城址

山家城址

山家城(甲ケ峯城)は、綾部市の山家地区にある標高236mの甲ヶ峯山頂に築かれた山城で、戦国時代には、和久左衛門佐が居城にしたと伝わっており、地元では「甲ヶ峯城」と呼ばれ親しまれている。現在、この山家城(甲ヶ峯城)跡には、山家城址公園近くの伊也神社から登ることができ、参道や案内板が整備されているほか、土塁や空堀が当時のまま残っている。


上林城址

上林城址

上林城址は昭和53年~56年に発掘調査され、城の規模や構造が明らかになりました。城は、丘陵頂部の本丸を中心として東西南北に廊を配しています。発掘で検出された石垣などの数々の遺構から、この城が高度な築城技術による本格的な居館であったことが判明しました。また、多量の出土遺物からは、この城の最盛期が16世紀前半であることも分かりました。


小畑城跡

小畑城跡

小畑城跡は、東西に流れる伊路屋川に向かって北から南に延びる丘陵の頂部に位置し、城跡は、尾根の北側に堀切を設けその南側を城域としている。小畑城の城主は、『丹波志』等の資料に戦国時代後期にこの地域の領主となった波々伯部氏と伝えられている。


周山城址

周山城址

周山の西北「城山」に、およそ400年前(天正7年)に明智光秀が山岳城を築いたといわれている。また、「周山」という地名も、光秀が中国の周の武王が善政を布いたという故事から名付けられたといわれている。現在、山頂に馬駆場といわれる平坦地と古井戸を残すのみだが、石垣跡で城跡の影をとどめている。山麓にある慈眼寺には墨塗りの黒坐像(逆臣の汚名をうけ全身を真っ黒に墨塗られた光秀像)が「くろみつ大雄尊」として境内左の釈迦堂に祀られている。


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